暦を見たらなんと今日から3月である。
ふと我に返ると、この1年間何もしていないような虚無感に襲われるが、机の上の棚を見ると、1年間に溜まったモノたちが所狭しと並んでいるし、blogの履歴を見ても、それなりに生きていたのだと確認できる。日常を思い返してみても、この1年で出会った人との距離は知らぬ間に近くなっていることに気づく。
1年前の自分と今の自分は確実に違うのだと認識すると少し落ち着いた心持ちになる。進歩とか、成長とかいうことではなく、自分が変化し続けることでしか、この世界と対等にやっていくことはできないのだと感じている。月並みな言い方だが、変化しないというのは、世界との関係を遮断することで、それは生きているとは言えないのではないかと思う。
「自分」という確固としたモノがあるのではなく、自分は周囲が形作っている。周囲との関係性の中にしか「自分」は存在しないのだと思う。
昔、毎日石膏デッサンをやっていた頃、石膏像を描くのではなく、その周囲の空間を描くことで結果として石膏像を浮かび上がらせようとしていた。空間を描くと言っても実際には石膏像の周りは真っ白な画面のままなのだが、空間(空気)が石膏像によって切り裂かれている状態、石膏という物質が空気を押しのけている状態を意識して描かなければ、結局は石膏像に留まっていて、石膏像と世界との関係性は描けないと思っていた。石膏を通して世界が描けなければ、石膏デッサンなんてただのつまらないお絵かきだ。
それと同じように世界によって形作られている自分というものを意識できなければ、生きることは、つまらなくて、とても窮屈なんじゃないかと思う。
すべては関係性の中に存在している。厳密な意味での他人は存在しない。
それに気づけば「自分」はたいして重要でなくなる。つまらないプライドも無ければ、コンプレックスもなく、人に傷つけられることもない。