今日は久しぶりに湯山さんと長話。最近は植物工場の研究のため、あちこち見学に行っているらしい。植物工場というと、なんだか、冷たい工業製品を思い浮かべてしまって、あまり関わりたくないという感じを受けてしまうが、水耕栽培で育てている施設は全て植物工場と言うらしく、すでにスーパーなどでは植物工場で作られた野菜が売られており、知らないうちに口にしているらしい。三つ葉やもやしなどはそれにあたると思う。
人口光線を使った植物工場では温度や光量、光の色などが自由に管理できるので、たとえばレタスの苦みを調節したり、均一で無駄のない葉物が収穫できたり、と良いことずくめ。また、高齢化が進み、農業が危機に瀕している現代においては、有効な食料自給の方法にもなり得る。
問題は、野菜が自然界と切り離された「工場」で作られるという「違和感」と、どうおりあいをつけるかということと、耕作者のいなくなった農地を荒廃してゆくにまかせて良いものかどうかということだと思うが、スーパーでパック詰めされた形の均一な季節外れの野菜を買うことに違和感を感じないようになった現代においては、工場で野菜が作られるというのも容易に受け入れられるのではないかと思うし、農業に補助金を出して、農家を保護するという政策もすでに限界に来ていると思う。
また原子力推進の国家戦略とも協調する。要するに、植物工場が普及する条件は出そろっているように思う。
しかし、それをやりたいとは全く思わないのは、結局「それやってて楽しいの?」という疑問だ。畑で野菜を作ると、土地によってクセがあるし、年によって収穫量は違うし、形や大きさもまちまちな野菜が収穫できる。間引き菜も新鮮だし、霜が降りた後の野菜は甘みがあってとっても美味しい。そして虫が食べた跡がある。そういう季節や土地に根ざした野菜を食べていくことの楽しさは何ものにも代え難い。
そういうところから世界と共に生きている実感というものは得られるのではないかと思う。土地や天候や季節と切り離された食べ物を食べて人工物の中で生活して「命を大切にしましょう」…なんて、虫の良い話だ。