Katayama Takatoshi Weblog
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反戦の母、家に帰る
アメリカ反戦活動のリーダー的な存在だったシンディ・シーハンさんが活動を停止した。
http://www.dailykos.com/storyonly/2007/5/28/12530/1525
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/6699781.stm

シーハンさんの息子はイラクで戦死した。そして「息子は何のために死んだのか」と問う為にテキサス州にあるブッシュ大統領の私邸の近くで大統領に直接面会を求めて2005年から座り込みを続けていた。たった1人で始めた行動は全米の注目を集め、結果多くの支援者が集まり、各地で講演活動も活発になったが、この2年間活動する中で民主党がイラク戦争を終わらせることができず、また、個人のエゴが平和や人命よりも優先される反戦活動に嫌気がさしたという。

そして次の言葉でアメリカ国民を痛烈に批判した。

“Casey died for a country which cares more about who will be the next American Idol than how many people will be killed in the next few months while Democrats and Republicans play politics with human lives.”

「ケーシー(息子の名前)は民主党と共和党が政治で人命をもてあそんでいる間、今後数ヶ月間の(イラクでの)死者数よりも次の「American Idol (アメリカのオーディション番組の優勝者)」が誰になるのかのほうに関心を持っている国の為に死にました。」


…ちなみに朝日新聞もこの記事を取り扱っているが「次のAmerican Idol 」の部分を誤訳している。ネット上の記事では「次の米国のアイドル」となっていて(意味不明だろ)、新聞紙上では意訳したのか、なんと「次のアメリカ大統領」になってる。おいおい訳しすぎだ(笑)。

そして、次の言葉は人ごととは思えない。

It is so painful to me to know that I bought into this system for so many years and Casey paid the price for that allegiance. I failed my boy and that hurts the most."

「私には、私が何年間もこのシステム(アメリカの悪しき2大政党制)を黙認し、ケーシーがその忠誠のために代価を払ったのを知るのはとても苦痛です。 私は息子を見捨てたのです、そのことが最も辛い。」


そう、何もしないのは現状を肯定することに等しい。しかし、そのために他の何か大切なものを犠牲にしなければならないような平和運動は長続きしないだろう。

"I am going to go home and be a mother to my surviving children and try to regain some of what I have lost."

「私は、家に帰って、私の生き残っている子ども達の母であり、私が失ったことのいくつかを取り戻そうとするでしょう。」


そう、それがいい。
by katayama_t | 2007-05-30 23:25 | Social
具象は楽し
雑務に追われて「仕事」が出来ないでいるが、時々作品の問い合わせが来る。たいていは、どこかのロビーに置けそうな作品はないか、とか、インテリア雑誌の「お部屋に飾れるアート特集」に使いたいから作品を貸してくれないか、という類の話なのだが、適当な大きさで形も優しくて飾りやすい作品はすでに売れていて手元に無いので断り続けている。こういうことが続くとそのうちに話が来なくなるだろうから、作品を作らなければならないのだろうが、今ひとつ気乗りがしない。

なぜかというと、売れる作品はインテリアっぽい作品ばかりで、彫刻っぽいというか、ちょっと大きかったり、毒があるような作品は売れないからだ。求められている作品がどういう種類の作品かは分かるし、そういうのを作れば間違いなく売れるのだろうが、あまり作りたいとは思わないのだ。

それでも、何かを作るということが私には必要なので少しずつ制作を再開しようと思う。

今日は学生に誘われて具象彫刻を作り始めた。他学科の学生にモデルになってもらって、1時間半、作り方を教えながら自分も作る。具象を作るのは何年ぶりだろうか?
大学4年生の時には卒業制作に等身大の人体を作ったが、あれから20年近くほとんどやっていないのではないだろうか。やってみると結構熱中する。作るべき対象があるので形を生み出す苦しさは無く気持ちはとても楽だ。週1回ずつやって2ヶ月くらいで完成させようと思う。具象は楽しい。
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by katayama_t | 2007-05-23 23:25 | Art
土地探しに疲れる
昨日もまたカリゴメさんに土地を見て貰う。日当たりも環境も良好で、カリゴメさんの感触も良ければすぐにでも決めたいと思っていたが、カリゴメさんが言うには「良い土地だが、値段的にはすぐには売れないだろうからまだ他の物件を見た方が良い、そのうちに値下がりするだろう。」とのアドバイスを受け、もうさんざん見たしいいかげん決めたいと思っていたのを思い留まって、昨夜またネットで探していたら今まで見落としていた土地を見つけ出し、今日また見に行った。

今度のは日当たりも良く落ち着いた古民家で、築100年以上経っている物件だ。今まで見た中では一番家のたたずまいがよい。100年経っている割には傷みも少ないが、それでも住める状態にするには結構な金がかかるだろう。まずはカリゴメさんに見て貰ってからどうするかを決めるとしよう。こういう買い物は焦ってはいけないといろんな人に言われるが、だんだん土地探しも疲れてきたし、そうこうしているうちに年を取ってしまうので、なるべく早く決めたい。
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写真はカリゴメさんの仕事場に積んであった刻み終わった材。カリゴメさんはこういう大工らしい仕事しかしないので、最近はあまり仕事が無いらしい。物を知らない人たちがペラペラの住宅メーカーの家を買ったりするからだ。こうしてまた一つ日本文化が消えていく。
by katayama_t | 2007-05-20 16:47 | Life
教育再生
教育再生会議が迷走している。母乳で育てろとか、子どもと一緒に歌を歌えとか、読み聞かせをしろとか育児本に出てくるような話が出て来たのにもあきれたが、今度は「徳育」を教科にするという。でも、徳育というのは教科にはなり得ないし、勉強が出来ないというだけで劣等感を抱かせるような学校という場所に徳育なんて出来るわけ無い。

勉強で順位付けをするなとか、競争をするなとか言っているのではない。むしろその逆だ。頭の出来がそえぞれ違うのに同じ年齢の子どもには同じ学習内容を教えるなんて、こんなおかしな事はない。情緒面の発達速度は年齢によって分けても良いが、理解力というのは人によって元々違う。同じ年齢の子どもには同じ学習内容を教えるというのは、皆同じ頭脳を持って生まれてきたという幻想の上に成り立っているのだ。

個性がどうの、と言うのなら理解力の足りない子どもにはゆっくり教え、理解力のある子どもにはどんどん先に進ませるのは当然だ。「そんなことをしたら、遅れていく子どもがかわいそう」だとか「飛び級していく子どもは心理面でゆがんでしまう」とかいう話が出てきそうだが、それは勉強というものに重きを置きすぎているからそう感じるのだ。

勉強が出来ない子どもは努力が足りないとされている現状では、そういう子どもは人格を否定されたような気になるのは当然だし、出来る子どもの中には優越感にひたって他の人を低く見るような勘違いをするバカも出てくるだろう。こういう欺瞞をやめてこその「徳育」なのではないか?

理解の遅い子どもは生まれつきそうなのだ。理解の早い子どもは、持って生まれた才能なのだ。才能(GIFT)は天から授かった贈り物だ。それは開花させてあげるべきだろう。
人間がよりよく生きる上で勉強ができることは重要じゃない。習い事の1つくらいに思っておけば良い。習い事には必ず才能が関わるし、習熟度も人によって大きく違うのだ。

同じ年齢の子どもでクラスを作って、勉強は各教科の習熟度ごとに年齢の違う子どもが混在するってのはどうなんだ?絵が抜群にうまい子どもは美大に通ってもいいし、小学生で高等数学を習っても良い。何も良い教科が無い子どもはゆっくり丁寧に理解していけば良い。で、授業が終わると同じ年齢の子ども達で一緒に遊ぶ。
さらなる知識偏重教育だと言われそうだが、その逆なんじゃないかと思う。
暴論かな?
by katayama_t | 2007-05-15 23:41 | Social
早くまともな家がほしい
先週末に見た土地がとても良さそうなので昨日大工のカリゴメさんを連れてプロの目でもう一度見てもらう。なぜか不動産屋の立ち会いが無く、鍵を開けておいてくれた。

7部屋の間取りの古民家と大きな納屋が付いた宅地が約1000坪に田が2000坪以上あって日当たりが良く閑静な山間でしかも交通の便も良い。家もりっぱな木材が入っていてびくともしそうにない。屋根も銅板を張り替えたばかりでまだまだ使えそうだ。田はずっと人に貸していて貸料は米で支払ってもらっているらしい。うちはよく食べる子どもが3人もいるのでこれは大助かりだ。それで値段は1500万円と破格。ローンを組めば払えそうだ。カリゴメさんが言うには、今こういう家を作ろうと思っても職人が居なくて出来ない。これだけ大きな木材が入っていればずっと住めるという。

これは、良い物件を見つけたと思ったが、先週の下見で一カ所気になる所があったので、ついでにカリゴメさんに見てもらった。床下に何かの石積みがあるのだ。

そしたらカリゴメさんそれを見たとたん固まってしまった。「!!」「あれ何!?」「もしかして井戸じゃない?!!」と言ったきり逃げ出してもうそこに近寄ろうとしない(笑)。

追いかけていって「どうしたんですか?井戸だったとしたら何か問題ですか?」と聞くと。
「いやあ…井戸はまずいですよ」と言う。
聞くと、古井戸を粗末にするとろくな事にはならないらしい。そして、ある家ではこうだった、また別の家ではこうなった。自分の兄貴もそういう家に関わってからすぐにガンで死んだ、とかいろいろ実例を挙げて話してくれた。

カリゴメさんが言うには井戸ってのは生命の源だから、それを粗末にするってのは命を粗末にするのに等しいという。
そう聞くと、なるほど確かにそうだなと思う。もし自分だったらやっぱり井戸の上に家を建てるような、飲み水が出た所を足蹴にするようなことはしないだろう。

そして、続けて言うには、この家はやたらと御札が貼ってありますよね。それから、小さな祠(ほこら)を指さして、あれはお稲荷さんのように見えるけど、どうもそうじゃないような感じがする。自分は実は今日デジカメを持って来てるけど、どうも撮る気がしなかった、こういう時に撮ると変な物が写っちゃうんですよ、とかいろいろ言う。
で、最後に、もしあれが井戸じゃないのならいいんですけどね。なんて言われても、もう気味が悪くてすっかり買う気が失せてしまった(笑)。

とりあえず、あれが何なのか確認してまた連絡しますと言ってその場を離れ、家に帰ってから不動産屋に電話して調べてもらった。
夕方になって不動産屋から電話があり、持ち主だった人が言うには、井戸は別の場所に2カ所あり、井戸ではないが、それが何なのかは自分も知らないような昔のものだということらしい。

不動産屋の話しぶりから井戸ではないということは信用できそうだ。でも、何なのか分からないということで納得できるようなモノではない。井戸と間違えるくらい大きいのだ。明らかに人為的に積み上げられた物だし、その用途も皆目見当がつかない。どうも、元の持ち主が何か隠しているような気がする。その家に生まれ育って何も知らないなんてことがあるだろうか?気味が悪いので、その土地はあっさりあきらめた。
写真も撮ったけど、ちょっと気味が悪いので載せないことにする。

次の日、大工のカリゴメさんに電話したら、いきなり「いやあ、昨日あの後家に戻ってからゲーゲーもどしましてねえ、まいりましたよ。」「やっぱりあそこは、何かありますね。・・・」
はい…もうわかったから、その話は(笑)。
by katayama_t | 2007-05-13 22:37 | Life
アーティストトーク
平田五郎展アーティストトークに行く。展覧会だけを観る人には「東京で展覧会をするためにアラスカに行って作品を作り、それを写真に撮って来た。」と受け取られる危険性があるが、今日の長大な話を聞くとそうではないということがよく分かる。
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「作品を作るためだけでもなく、写真を撮るためだけでもなく、ましてや冒険をしているのでもないし、終わってアンカレジに着いたら早くスタバのコーヒーが飲みたいと思っている自分もいる。4ヶ月かけてアラスカをカヌーで廻る中で起きたことを全てひっくるめた事柄が作品なのだと思う」とは本人の談。展示している作品写真はアラスカで起きた事のごくごく一部なのだ。
これを展覧会で伝えるのは無理がある。文章を添えて本という形で残すことは出来ないかと思う。
by katayama_t | 2007-05-11 23:19 | Art
全ての物事の基本
ああ、また繋がってしまった。どうしてこう世の中は狭いのだろう。
寺田本家のHPにリンクのあるちゃんぷるーの素というブログを見ていたら、稲熊さんというお宅が出てきた。これは最近よく妻との会話に出てくるお宅だ。つい昨夜も稲熊さんが作ったパンはとびきり美味いという話をしていた。

稲熊さんとは、うちの末っ子の保育サークルで妻がお知り合いになり、話をするうちに住んでいる場所もわかった。ナントそこは以前私たちが目星をつけていた家だった。その時はまだ空き家じゃなかったから断念したのだが、その後、稲熊さんがタイミング良く見つけて入居したようだ。入居してから自分で相当手を入れて見違えるような立派な家になっている。

千葉の奥地には、時々タダ者ではないような人が住んでいる。生活クラブ生協で知り合った方は、子どもが4人いて保育園には行っておらず家にはテレビが無い。それで、取っている新聞は英字新聞という…ちょっと変わった翻訳業を生業としている方だし、「100万円の家作り」というセルフビルドの家を推奨してワークショップを開いている小笠原さんもすぐ近くに住んでいる。そして、この稲熊さんも聞けば聞くほどとってもとってもとっても凄い方だ。何が凄いって、全部自分でやってしまうのだ。家を直すのはもちろんのこと、米も大豆も小麦も作っていて当然味噌は造っているし、なんと××まで造っている。私など恥ずかしくて味噌を造ってますなんて言えない。私たちがやっているのは大豆と麹と塩を買って来て、ただ味噌を仕込んでいるだけだ。そんなの機械にだって出来る。

それは作品作りでも同じだ。陶の作品ならば、どこかで作られた粘土を買ってきて形を作り、原発で作られた電気で焼いているのだ。金属の作品もまた同じ。金属自体が工業製品なのだ。これでは真に創造的な仕事など出来ないのではないか、と思う。
画家だって、昔は自分で絵の具を作っていたのに、今では皆買った絵の具、人が調合した色を使っているだけだ。
偉そうなことは何も言えない。結局は商品を作っているのだ。

創造とは何か、人間にとって何が一番大事なのか、ということから目をそらしてはいけない。やはり衣食住という人間にとって基本的なところから見直していかなければ何をやっても虚業でしかないのではないか?
by katayama_t | 2007-05-10 23:49 | Art
発芽玄米酒
香取80のファンになって、とうとう6本入りのケース買いをするようになった。今まで続けて同じ日本酒を買うようなことも無かったのだが、この酒には、すっかりはまってしまった。一升1953円という値段も良い。それにしてもこの美味さはいったいどうしたことかと思い、製造元の寺田本家のホームページを見ていたら、発芽玄米で造った「むすひ」という酒があって720mlで997円とちょっと高めだが、精米歩合100%とか、発芽玄米とかなにやらタダ者ではないような匂いがぷんぷんするので買ってみた。
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いざ開けようとすると、開栓注意!!となっていて、ゆっくり開け閉めを繰り返してガス抜きをしないと吹きこぼれて中身が半分くらいになることがある、なんて恐ろしいことが書いてあるのでそろりそろりと開けると、シャンパンのようにプシュッという音と共に泡が立つ。瓶の底には酵母が溜まっているのでゆっくり瓶を揺すりながら注ぐととても良い香りがする。
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飲んでみると、アルコール度数が低いせいか、あっさりしたジュースのような感じだ。ちょっと拍子抜けしたが、また口にしたくなるような味なので杯を重ねていくといつの間にか酔っぱらっていた。アルコールを飲んでいるという感じはしないが、杯を重ねるごとに美味さを感じてくる。

クセになりそうで、ちょっと危険だ。高いからもう買わないが、また飲みたくなるのだろうという気がする。…っていうかすでにまた飲みたくなってる。日本酒だと思うから高く感じるのだ、ワインだと思えば安いので、たまに買って飲むことにしよう。
by katayama_t | 2007-05-09 23:40 | Life
デッサンをすることの意味って何だ?
このblogのタイトルにもしたのだが「Dessinデッサン」というのは奥が深い。未だにそれが何なのか言語化できずにいるのだが、少しずつでも考えを記述していこうと思う。

今の職場は総合大学のデザイン学科だが、受験にデッサンを課していない。そしてデッサンをすることの意味を理解している教員は私の他にはおそらくいない。

でも、デッサンをやった方が良いという教員もいる。
その考えが分からないので「どうして?」と聞くと「考えた形を人に示すために絵が描けなければならない」なんて、つまらないことを言ったりする。

デッサンというものが絵を描けるようになる為にだけあるのなら、美術やデザインの勉強にデッサンなんてホントは必要ないのだ。具象美術は死に絶えてるし、デザインの現場ではCGが使われている。

ではなぜデッサンをやるのかと言うと、それは物の見方や考え方を鍛錬する為だ。つまりデッサンをすること自体に意味があるのだ。「デッサンをする」というのは「考える」ということだ。人はものを考える場合には言葉で考える、そしてデザイナーや美術家の言葉は絵(デッサン)なのだ。

美術の世界では(今はどうなのか知らないが)、初心者にいきなりデッサンをさせる。そして、徹底的に「何も教えない」。今にしてみれば不思議だがそれを誰も疑問に思わないで1から自分の頭で考えて描いていく。そうすると実にいろいろなことを考え、いろいろなことが解っていくのだ。

「物を描くということは周囲の空気を描くことと同義だ」とか
「3次元のものを2次元におとすことによる、または画面に入れることによって起きる錯覚」とか
「影と陰の印象の違いはどう表すべきであるか」とか
「光とは何か」とか
「物質とは何か」とか
「存在とは何か」とか
「どうしてタダの線に命が宿るのか」とか
「強さと弱さとは何か」とか
「月にも地球の反射光は当たっているのか」とか
「どうして同じ画材を使っているのに人によって違う色が出るのか」とか
「面白い(funny)とおもしろい(interesting)の違い」とか
「見るとは何か」とか

挙げだしたらキリがないくらいに様々なことを考え、道を歩いていても電車に乗っていてもそのことが頭から離れない。「絵って何だろう?」とは今でもよく考える。

デッサンを描くというのは現在目の前で起きている現象を突き詰めて考えるということでもある。目の前に宇宙の法則の全てがある。絵を描くというのは感性の問題だと思われがちだが、実はその大部分は物理学的、科学的な思考なのだ。

そして、言わばその副産物として3次元的なものの見方が可能になり、「形」が見えるようになる。「形」が見えればそれは描けるのだ。器用さなど関係がない。だから描ける人は左手に鉛筆を持っても、足でも描けるはずだ。

で、さらにそれらを越えたところに「表現」がある。ここまで行って初めて「良いデッサン」になる。

日本の美術大学の場合、入試にデッサンがあるので大学入学前に皆デッサンをやるのだが、ヨーロッパの美術大学ではどうしているのか?今でもデッサンをやっているのか?と疑問なのでいろいろと検索したら、時の人「佐藤可士和」氏がデッサンについて力説してた(笑)。無断で抜粋しとこ。

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http://www5e.biglobe.ne.jp/~gajuku/artisttalkks.htm
可士和; ぼくは、アートに関わる以上「デッサン力」がないとダメだと思っています。「デッサン力」とは「理解力」のことです。描くこと=理解することですから、見方・把握の仕方の訓練が描くこと(デッサン)なんだと思います。また、広告ディレクションは「視点とセンス」が命です。フツウの人と違う視点でものを見て、センス良く再プレゼンテーションすることが広告ですから、ひとつのモノ・コトをいろいろな見方(価値観)で見れるように訓練しなければいけない。そのためには「デッサン」が有効だと思っています。
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彼とはお茶美で一年間同じクラスだった。こんなに有名になるとはみな驚いてるだろうなあ。いくつになっても「若者」って感じでいいなあ(笑)。

それはさておき、ここで言われていることで注目したいのは「絵が描けるようになる為に…」などとは一言も言っていないことだ。それとは一見関係ないように見えるモノ・コトの見方などと言っている(笑)。これはデッサンをやったことのある人なら「そうそう!」と膝を打つような話だが、やったことがなければなかなか理解できないのではないかな…。

私がここの教員になった時にすごく驚いたのはデッサンの授業中に学生が「どう描けばいいんですか?」とか「これでいいんですか?」とか聞いてきたことだ。「それでいいかどうかは自分で考えろ」と思ったのだが、あまりに意表をついた質問だったので口ごもってしまった。その時はなぜそんなことを聞いてくるのか理解できなかったが、今なら解る。「描き方」や「正解」があると思っているのだ。「描き方を教えてくれなければ描けない」という。無理もない。今まで教えてもらえば解るようなことしか勉強してこなかったから。でもこればっかりは「教えてもらっても解らない」のだ。目が見えない人に描き方を教えても描けるわけがないのだ。

そうは思いつつも、今は私が自分自身で獲得した「描き方」を「鉛筆の削り方」から「表現とは何か」に至るまで一から十まで教えている。それもしかたがない。授業で一度デッサンを描いたからといって何もわからないと思うが、何か得たモノがあったと、勘違いでも思ってもらわなければ大学の授業としては成り立たない。そこで頭で解ったような気になってもらうようにしたのだ。つまり授業でやっていることは「デッサン」ではなく「デッサン体験」なのだ。

授業で配るプリントにもそう明確に書いた。

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■目的
 これからデザインの勉強を始めるにあたってそのもっとも基礎となる描写力や立体を把握する能力、さらには自分で形を作り出す創造力,造形力を養うためにはデッサンは格好の訓練方法です。この課題ではデッサンの考え方や具体的な描写方法を学び、実制作を通して体験し、今後各自で鍛錬していくための指針となることを目的とします。
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これはつまり「この授業を受けただけでデッサンをやったような気になるな。きっかけは作った。あとは自分でやれ」と暗に言っているのだ(笑)。

私は必ずしも美術やデザインの教育にデッサンが必要とは思っていない。その代わりに哲学でも良いのではないのか?と思っているくらいだが、自分自身で考える力が獲得出来、ついでに目も見えるようになるような実践的な課題は他に見あたらないのだ。
by katayama_t | 2007-05-08 22:28 | Art
土地探しの休日
2月まで韓国にいたからか、この春は花粉症の症状が軽くて助かると思っていたのだが、4月に入ってから徐々に症状が出だして今は結構辛い。鼻の奥と喉が痛くて一日中鼻をかんでいる。この時期だから杉ではないだろう、たぶん檜だ、杉に加えて檜にもアレルギーが出だしたのだろう。

自分が花粉症になる前は花粉症の人を密かにバカにしていたので、自分に症状が出だしても強がってマスクをしたり病院に行ったりはせずに過ごしていたのだが、年々悪化してきてそうこうするうちに我慢できないくらいになり、とうとう病院に行ったのが5年ほど前だ。その頃にはすでに症状が慢性化し副鼻腔炎(蓄膿症)という診断を受けた。それから春には毎年耳鼻科にかかっている。今年はかからないで済むと思っていたのだが、やっぱりダメみたいだ。明日耳鼻科に行こうと思う。

今日は一日中不動産屋を廻って土地を見ていた。住むための土地を探しだしてかれこれ7年くらいになるが、なかなか希望通りの、つまり安くて手が出そうな土地が見つからない。つい最近まですぐ近くに買えそうな土地があったのだが、持ち主のじいさんが結局首を縦に振らず、また振り出しに戻ってしまった。息子の世代(50代くらい)はこのまま過疎化が進むよりも住んでもらったほうが良いと考えているようだが、じいさんの世代(80代)は、たとえ使わない土地であっても先祖代々の土地を手放すというのは世間体もあるしなかなか踏ん切りが付かないようだ。こういう不動産屋を通さない土地は自分にも買える値段(一坪8000円くらい)なのだが、不動産屋を通すともう買えない値段(3〜4倍)になってしまう。

不動産屋で売りに出ている土地は跡継ぎがすでにいない土地なので、売る側はたぶん二束三文で手放しているのだろうが、それを手に入れた不動産屋は安く売ることはしない。高くても買う人がいるからだ。私は夜な夜なネットで探して現場を見て、なんとか条件に合う場所を探し回っているのだが、そんな私たちの苦労も知らず定年退職した団塊の世代は、私たちが諦めざるを得ないような高額の土地をあっさり即買いしていくのだ。敵は退職金を持っている。強敵である。60歳を過ぎてから田舎に越しても草刈りだけでも体力的に大変だし、毒虫や獣はいるし、病院は遠いし、近所付き合いはあるし、何も良いことはないと思うが、千葉の田舎にはそういう現実を知らないで「田舎暮らし」という甘いコトバにつられた人たちが次々と移住してくる。おとぎの国でもあるまいしそのうちに管理しきれず荒れ放題になるのは目に見えているのだが、そんなことを言ったところで金を持たない者の負け惜しみにしか聞こえないだろうな。

今住んでいる家は月2万の家賃で借りているが、裏の竹林が年々迫ってきていて、もう限界が近い。さっき妻がちょっと奥の部屋まで来てくれというので何事かと思って行ってみると、畳がなんとなく盛り上がっている。明らかに筍の仕業だ。床下に筍が生えてきているのだ。やれやれ今週中に成敗しないと一週間で屋根まで突き抜けて家が壊れるだろう。ここでは「自然」は保護するものではなく、闘うものだ。田舎暮らしってのは楽じゃないのだ。
by katayama_t | 2007-05-06 20:27 | Life


記録すること。すべて過ぎ去ってしまう前に。
by katayama_t
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