Katayama Takatoshi Weblog
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天使の国
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少し前になるが、ルドルフ・シュタイナー展「天使の国」を観に行った。
黒板絵の実物はどれも素晴らしく、また、ゲーテアヌムの記録写真や映像を観るとその規模と独自性に驚く。コルビュジエやヨーゼフ・ボイスなど多くの芸術家や建築家などがシュタイナーから多大な影響を受けたのも頷ける。

シュタイナーというと「人智学」という独自の思想を読み解くことがその世界を理解する近道だろうと思って、20代の頃にいくつか本を手にとっては挫折した経験がある。そこには何か重要なことがあると感じさせるのだが、どうにも取っつきにくくて入り込めない。

それが最近、友人の白石さんから教えてもらった「ミュンヘンの小学生」「ミュンヘンの中学生」という2冊の本を読んで、「なあんだ、シュタイナーの思想を理解するためには、素直にシュタイナー教育から入っていけばいいのか」と思った。この本は1970年代のミュンヘンでシュタイナー学校へ通っていた娘を通して知ったシュタイナー教育の体験談。本に書かれた内容は「実に素晴らしい」の一言。それは単に教育方法が素晴らしいということだけではない。いやむしろ「教育方法」という言葉から連想されるような一種のハウ・ツーを否定している。「シュタイナー教育」とは教育方法に関する固定したドグマの一種ではなく、確固とした人間の本質に関する基本認識を持ちながら、教師自らが感じ考えて子どもたちと共に実践していく人間育成の過程である。その「人間の本質に関する基本認識」というのが、どこか神秘主義を感じさせる怪しげな理論だったりもするのだが、それが教育課程に反映されてゆくと、なるほどとうなづける。例えばシュタイナー学校では子どもが生まれてからおとなになるまでの、ほぼ20年の年月を3つの「7年期」と呼ばれる段階に分けて、そのそれぞれに、本質的な教育課程を定めている。

第1・7年期/生まれてから7歳まで 身体の健全な発育と、5感による環境の模倣
第2・7年期/7歳から14歳まで 芸術体験によって世界を美的に感じ取る
第3・7年期/14歳から21歳まで 思考把握によって世界と人間のことを知る

つまり、シュタイナー学校が考える子どもたちの発達段階に合わせた教育を行うということなのだが、それだけではなく、特筆すべきは早期教育を諫めている点。例えば7歳から14歳までの第2・7年期に多くの本を読んで知識をたくさん持っている子どもや、物事の要点をまとめて理解する論理思考に長けた子どもは、現代日本では優等生とされるだろうが、シュタイナー学校では問題児とされる。この時期の子どもには上記のように「芸術体験によって世界を美的に感じ取る」ことが必要であり、例えば数学や文法などどうしても抽象概念が必要だと思われるような勉強でも、ひとつの芸術体験として、子どもがまず感性で触れていくようなやりかたで行われる。

芸術体験や芸術教育などと聞くと、絵を描かせたり、音楽を聴かせたり楽器を演奏させたりすることを考えがちだが、それだけではなく、例えば家を作る授業や、農作物を作る授業があり、その中で子どもたちは、五感を使って世界の美しさに触れていく。数学や歴史、国語の授業でも絵を描いたり図を描いたり、物語を聴いたりしながら、やはり五感を働かせてその世界を美的に感じ取りながら自ら考え学んでいく。各教科が独立した別々のものではなくて、それらすべてが関連して美的な世界を形作っており、美を基本として、世界を1つの統合された全体として感じ取られるように計画されている。そこでは記憶力や論理思考力などをそれのみで独立して発達させることを諫め、この時期にいわゆる狭い意味での「勉強」が飛び抜けてできる子どもは、一種の偏りであり、問題児とされるのである。

芸術を人間の営みの中心におくという思想で思い出されるのは、ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻という概念だ。ボイスの言う「すべての人はアーティストである」という言葉の意味は、今まで理解しているつもりでいたが、シュタイナー教育の思想を知ってより深く理解できた。それは、来るべき新しい「芸術」の概念ではなく、すべての人が世界を美的に捉え、それぞれの立場でアーティスト(この言葉が誤解を生むことを承知で言えば)として生活していくという意味だ。今までの「芸術」という概念の枠外にある思想であり、絵や彫刻など既存の芸術はもう古いという意味では決してない。
by katayama_t | 2014-09-16 15:45 | Art
ささやかな抵抗
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畑で在来種の黄色いトウモロコシと黒いトウモロコシを作っている。肥料不足で貧弱だけれど、とっても美味しいので毎年作る。黄色いトウモロコシと黒いトウモロコシは勝手に交配して黄と黒が混ざったトウモロコシができる。遠い昔、デッサンのモチーフに使われる乾燥トウモロコシにこういうふうに色が混ざったものを見かけた。その頃は「綺麗な謎の物体」でしかなかったものが、今自分の手元でその出自を明かしているのを目にすると、自分と世界との繋がりがまた一つ増えたような気持ちになる。

池澤夏樹の「静かな大地」という蝦夷地を舞台にした小説に政財界を動かすほどの実力のある商人が登場する。心ある和人とアイヌが共同経営する広大な牧場を乗っ取る算段で和人の代表者に近づいてくるのだが、牧場のことなど何も知らず馬と牛の区別もつかないようなその男は、牧場の広さや馬の数など数のことしか言わない。常に天井のある場所で仕事をして、私利以外は念頭にない。

一方そこで働いているアイヌは数のことなど考えたこともない。和人が来る前は山には鹿や熊、川には鮭がふんだんにいた。暮らしに困るようなことは無かった。今は和人に乱獲され動物がめっきり減ってしまったが、どうすることもできず、和人のやりかたに合わせて牧場で馬を育て、それを売りながら丁寧に暮らしている。立派な良い馬を育てることで有名だが、金儲けには関心が無く皆で安心して暮らせる場所がほしいだけである。しかし、最後にはその努力も空しく、牧場は和人の手に渡り、アイヌの暮らしは過酷を極めていく。

これは、言うまでもなく世界中で起きていることである。アメリカインディアンしかり、アボリジニしかりである。

物語の中で“熊の神”がこんなことを語っていた。
「今、和人は奢っているが、それが世の末まで続くわけではない。大地を刻んで利を漁る所業がこのまま栄え続けるわけではない。与えられる以上を貪ってはいけないのだ。いつか、ずっと遠い先にだが、和人がアイヌの知恵を求める時が来るだろう。神と人と大地の調和の意味を覚る日が来るだろう。それまでの間、アイヌは己の知恵を保たねばならない。- 中略 - 時の流れのはるか先の方に、アイヌと知恵ある和人が手を取り合って踊る姿がわしには見える。天から降ったものを争うことなく分ける様が見える。」

武力の弱い民族の文化を滅ぼし、存続を危うくしていくこと。つまり多様性を排除することは結局自分たちの首を絞めていくことに繋がっていくのではないか。

家の畑に来年も在来種の種を植えようと思う。
by katayama_t | 2014-09-07 12:24 | Life


記録すること。すべて過ぎ去ってしまう前に。
by katayama_t
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