Katayama Takatoshi Weblog
生活用具を自分に合わせること
先日実家から「壊れた」というのでもらってきたポットを直して使っていたが、質感がどうにも気に入らない。ステンレスの外観に施したビニールコーティングが剥がれてきていて見る度に嫌な気分になる。買った時が最も美しくて、次第にみすぼらしくなるような作り方はいかがなものかと思う。古くなったらそれなりに味や風格が出てこなければ。

このビニールコーティングを剥がせないかと、コーヒーを飲みながらむしっていたが、ますます汚くなるばかりなので、分解してサンドペーパーで磨いてしまった。
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ロゴや注意書きなどもビニールコートの下にあるので、一緒に削る。
MODERNITYというロゴが悲しい。
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プラスチック部分もペーパーをかけて洗ってから組み上げ。
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堂々たる風格(笑)。
# by katayama_t | 2015-01-18 13:02 | Life
デザイナーズカトラリー再生プロジェクト『柳宗理 編』1
タイトルが大げさすぎて気恥ずかしいが、要するに壊れたフォークを直したので、その記録。たぶん「1」で完結。

柳宗理のフォークを長年愛用していたが、先日あっさり折れた。ショックだった……。フォークが折れたことよりも、柄の中に埋め込んであるステンレス棒の短さにショックを受けた。おそらく黒檀であろう木の柄の中に、ほんの2cm程度埋め込まれていただけだった。これでは折れてあたりまえではないか。
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ということで、まず、適当な太さのステンレスの丸棒を探す。
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「あった!」
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バンドソーで切断して溶接。
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先日家具職人の大谷友彬さんのところから譲って頂いたウォールナットの端材にボール盤で穴を開け、ベルトサンダーで削る。
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オリジナルよりも長めに作ってバランスの良い長さで切断する。元の長さよりもほんの2mmほど長めで、少し太め。
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最後にエポキシ接着剤で固定して、エゴマオイルを塗って仕上げ。

以前ケトルの取っ手を作った時にも思ったが、オリジナルの形はさすがによく吟味されていて「良い形にしよう」と思うと自然とオリジナルに近づいていく。ただ、手の大きさが人によって違うので、使い手にぴったりと合わせようと思ったら若干の調整が必要になるのではないか。今回は、オリジナルよりも少し太く、やや丸みを持たせたことで使いやすく見た目も堂々としていてとても気に入った。
# by katayama_t | 2015-01-16 11:37 | Life
デザイナーズケトル再生プロジェクト『柳宗理 編』3
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前回取っ手を交換して、それがようやく馴染んできたと思ったら、今度は蓋のつまみ部分がどうにも気に入らなくなってきた。薪ストーブの上に置いていると工業製品臭さが際立って、どうにも我慢ならないので、お昼に飲んだワインの酔いにまかせて作り替えることにした。

近くの家具工房からウォールナットの端材をもらってきて、適当に穴を空けてカット。角をカッターで落として、ねじ込んで、最後に台所にあったオリーブオイルを塗って完成。

なんともおかしなバランスだが、これはもう元のヤカンの形があれだからしかたがない。

「ファッション」ではなく実用品として薪ストーブを使用しているような生活の中では工業製品の「形の弱さ」が浮いてしまうのだということを最近よく感じるようになった。

工業製品が悪いと言っているのではない。工業製品=量産品だとしたら、自分がそういう大多数から外れているというだけ。そこに良いも悪いもない。
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いかにも不格好だが、我が家の生活にはこのほうが合っている。
# by katayama_t | 2014-12-20 15:37 | Life
ストーブ運転開始
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夏に設置したストーブを今日から稼働させた。このところ身体の調子がすこぶる悪い。いくら休養をとっても快復しない。こういう時に家族がいて良かった、猫がいて良かった、絵があって良かった、そして火があって良かったと思う。
# by katayama_t | 2014-11-15 20:42 | Life
山神様はどこへ
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すぐ近くの山にゴルフ場開発計画があった。開発業者がバブルの頃に土地を取得し、一部工事を開始したものの、どうしても土地を手放さない住民がいて頓挫したままバブルがはじけてそのまま計画が凍結されたらしい。ゴルフ場ができれば雇用が生まれる、また、ゴルフ場開発で土砂が流れるので近隣の河川をコンクリートで護岸工事してくれるという約束をとりつけ当時ほとんどの住民は賛成したらしい。土地を手放さなかった方は大変なプレッシャーを感じていただろう。

最近ゴルフ場に使用される農薬は安全で量も少ないとか、野生動物の宝庫だとか、貯水能力は意外と高いなどと言うゴルフ場擁護論がある。そういう話はまったく信じていないが、仮にそれらがすべて真実だったとしても私はゴルフ場が大嫌いだ。ゴルフをやる人間は信用しないし、すべて悪人だと思っている。

改めて上空から千葉県を眺めてみると、市原市やいすみ市のほとんどの山がゴルフ場になっている。かつてこの山々にもきっと山神様がいて小さな社がたくさんあったはずだ。うちの小さな裏山にも社や地蔵が3つもあるのだ。あの山々には数知れない神々がいただろう。その神々を失っていったい何が残るというのか。ほんの一時期ほんの少し雇用が生まれたところで、人口が減っていけばそんなものはすぐに無くなってしまう。そして失われた樹木や神は二度と帰ってこないだろう。

人の住んでいるすぐ側に容易には近づけない自然があるということの精神的な充足感は何ものにも代えがたいのではないか。以前住んでいた大多喜の家の前には時々鹿が立っていたり、庭にアナグマがいたり天井裏にハクビシンがいたりした。屋根の上を猿が歩いていた。畑はイノシシに荒らされ農作物の被害は甚大だったが、それでも、そういう動物がすぐ近くに住んでいることを誇りに感じていた。夜動物の鳴き声が聞こえると何か神聖な気持ちになった。それらが無くても多くの人は生きていけるかもしれない。でも私には無理だ。少子化が進み、ゴルフ人口も減り、千葉県のゴルフ場は今後次々に経営破綻していくだろう。あと数十年かけてあの広大な土地が自然に帰っていくことを祈るばかりだ。
# by katayama_t | 2014-11-14 18:17 | Social
生きるために必要なこと
自分には彫刻があって良かったと思うのと同じように薪割りや焚き火があって本当に良かったと思う。人が生きるために必要なことは、何かを作ったり、火を焚いたりすることだと思う。
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# by katayama_t | 2014-11-14 17:41 | Life
「GAKE」へ
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まだ店を始めていない頃に一度お邪魔したきり、すっかり疎遠になっていた「GAKE」に行ってきた。先日家の前を偶然通りかかったとのことでわざわざ車から降りて挨拶していってくれたのがきっかけで、今日は家族で行ってみようという気持ちになった。最近体調がすぐれず、良い気晴らしになるかもしれないという期待もあった。

行くと予想外と言っては大変失礼だが、とても繁盛していて驚いた。店の周囲は車であふれ、ひっきりなしに客が来る。店の感じもおしゃれだけど適度に乱雑で落ち着く、無造作に展示してあるアンティークに子どもたちは興味津々。料理やケーキの盛りつけもなかなか美しく、コーヒーも美味しい。ランチをやっているとは知らずに、ランチタイムに飲み物のみという失礼をしてしまったが、今度はぜひランチを食べに行きたいと思えるほど居心地が良い。妻もすっかり気に入り「人が集まるのは店主の人柄もあるんじゃないか」とのこと。やっぱり人は人で動くのだよな、と再確認した。ここから臨む海もやはりなかなか見事。休日の楽しみが1つ増えた。
# by katayama_t | 2014-11-03 22:56 | Life
シュタイナー学園でエポック授業2
粘土で形を作ってから約2週間空けていよいよ野焼き。今回は物が小さいし粘土が乾燥しているので簡単には割れそうにないが、念には念を入れて外側から徐々に炙っていき、最後は火力の強い竹を入れて一気に温度を引き上げる。粘土が焼けた温度は火の色から判断してだいたい700℃から温度が高いところでも800℃程度なのではないかと思われる。

焚き火で火力を調節するにはある程度の経験が必要である。子どもの頃によく火で遊んでいた人は火の扱いが自然と身についているが、そうでない人は、火力を安定させることができずに、燃えすぎてしまったり火が消えてしまったりということが起きる。

私が子どもの頃は冬になると朝には必ずどこかで焚き火があり、道行く人があたっていった。焚き火を囲う者どうし何気ない会話をしていた記憶がある。そしてそれを見て、子どもたちも火遊びを覚えていったような気がする。そんなふうに火が日常にあったので私たちから上の世代は比較的火の扱いに慣れているが、下の世代になると、バーベキューをするにも着火剤が無いと火を起こせないような人が多い。また、最近では火を燃やしてはいけない場所が多く、賃貸住宅でもオール電化などと言って、生活の中で火を見ることがまったく無い人も増えている。

こんなことで大丈夫だろうか? と心配になるが、同じような心配はいつの時代にもあったのかもしれない。便利なものが発明されれば、その分人間の能力のどこかが退化するのは自明だ。しかし、それでもなお思う。火や土と切り離された人間は本当に大丈夫なのだろうか?

野焼きをしている間、ここの子どもたちは、竹を鋸で引いたり、火で遊んだり、笹を採ってきて火で炙って弓矢の矢を作ったりして、すっかり道具や火に慣れている様子。子どもの頃からこうしていれば当たり前に道具や火が扱える大人に育つだろう。

子どもの人数が少ないことが気がかりだが、ここでしか経験できないことをもっとたくさんさせてあげたいと思う。
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# by katayama_t | 2014-11-03 22:08 | Art
シュタイナー学園でエポック授業1
ひょんなことから長南町にある「あしたの国シュタイナー学園」で焼き物の授業をすることになった。

旧知の友人から突然電話があり「相談があるから行っていいか」という話。よく分からないが、いつでもどうぞと答えておいたら、数週間前の日曜日に突然「今向かっているんだけど、道が分からない」という電話(笑)。すぐ近くにいたらしく、説明したら2〜3分で到着した。

改めて話を聞いてみてびっくり。今までまったく知らなかったが、彼はシュタイナー学園に自分の子どもを通わせながら、そこで先生もしているらしい。長南町のシュタイナー学園にはいつか見学に行きたいと思っていたが、こんな形でチャンスが訪れるとは夢にも思っていなかった。

そして相談というのは、私にシュタイナー学園で授業をしてほしいという内容だったのでこれまたびっくりしてしまった。聞くと、台風で裏山が崩れて粘土層が露出し、その粘土で子どもたちが『基地』を作って自由に遊んでいるらしく、せっかくだからその粘土を使って野焼き(縄文式)で焼き物が作れないかとのこと。よくぞ連絡をしてきてくれたと思う。自慢するわけでは無いが自分はそういうことに関しては適任だと思う。野焼きはずいぶん前に藤田昭子さんの作品を河原で焼くのを手伝いに行ったことがあり、その後も何度か自分たちでやった経験がある。それに今でも日常的に火を扱う日々だ。それに、何よりシュタイナー教育に並々ならぬ関心がある。

裏山で採れたという粘土を見せてもらうと、しっかりとした粘りがあり、耐火度も低くなさそう。試しに800℃で焼いてみるとまったく問題無く焼けたので、その粘土を使って授業をやることにした。

授業当日iPhoneのナビを頼りに車を走らせていくと、道路脇にある広い空き地で子どもたちが自由に走り回って遊んでいるのが見えた。『ここに間違い無い!』と思って駐車場に車を入れ、挨拶もそこそこに荷物を下ろして授業の準備をする。

授業をやるのは小学校3年生から5年生の子どもたち7名。それぞれ個性豊かで楽しく過ごすうちにあっという間に時間が過ぎて、終了時刻に。ずっとこうしていたいという気持ちを引きずりながらやむなく片付けをして、また来週会おうねと言って別れた。

自分は子ども好きではないとずっと思ってきたけど、それは自分が自意識過剰でどうやって子どもに接していいのか分からないからだったのかなと今になって思う。自分も子どもになって一緒に楽しんでしまえば子どもたちとのコミュニケーションには何の問題もない。来週はいよいよ野焼き。とても楽しみ。
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# by katayama_t | 2014-10-19 20:04 | Art
天使の国
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少し前になるが、ルドルフ・シュタイナー展「天使の国」を観に行った。
黒板絵の実物はどれも素晴らしく、また、ゲーテアヌムの記録写真や映像を観るとその規模と独自性に驚く。コルビュジエやヨーゼフ・ボイスなど多くの芸術家や建築家などがシュタイナーから多大な影響を受けたのも頷ける。

シュタイナーというと「人智学」という独自の思想を読み解くことがその世界を理解する近道だろうと思って、20代の頃にいくつか本を手にとっては挫折した経験がある。そこには何か重要なことがあると感じさせるのだが、どうにも取っつきにくくて入り込めない。

それが最近、友人の白石さんから教えてもらった「ミュンヘンの小学生」「ミュンヘンの中学生」という2冊の本を読んで、「なあんだ、シュタイナーの思想を理解するためには、素直にシュタイナー教育から入っていけばいいのか」と思った。この本は1970年代のミュンヘンでシュタイナー学校へ通っていた娘を通して知ったシュタイナー教育の体験談。本に書かれた内容は「実に素晴らしい」の一言。それは単に教育方法が素晴らしいということだけではない。いやむしろ「教育方法」という言葉から連想されるような一種のハウ・ツーを否定している。「シュタイナー教育」とは教育方法に関する固定したドグマの一種ではなく、確固とした人間の本質に関する基本認識を持ちながら、教師自らが感じ考えて子どもたちと共に実践していく人間育成の過程である。その「人間の本質に関する基本認識」というのが、どこか神秘主義を感じさせる怪しげな理論だったりもするのだが、それが教育課程に反映されてゆくと、なるほどとうなづける。例えばシュタイナー学校では子どもが生まれてからおとなになるまでの、ほぼ20年の年月を3つの「7年期」と呼ばれる段階に分けて、そのそれぞれに、本質的な教育課程を定めている。

第1・7年期/生まれてから7歳まで 身体の健全な発育と、5感による環境の模倣
第2・7年期/7歳から14歳まで 芸術体験によって世界を美的に感じ取る
第3・7年期/14歳から21歳まで 思考把握によって世界と人間のことを知る

つまり、シュタイナー学校が考える子どもたちの発達段階に合わせた教育を行うということなのだが、それだけではなく、特筆すべきは早期教育を諫めている点。例えば7歳から14歳までの第2・7年期に多くの本を読んで知識をたくさん持っている子どもや、物事の要点をまとめて理解する論理思考に長けた子どもは、現代日本では優等生とされるだろうが、シュタイナー学校では問題児とされる。この時期の子どもには上記のように「芸術体験によって世界を美的に感じ取る」ことが必要であり、例えば数学や文法などどうしても抽象概念が必要だと思われるような勉強でも、ひとつの芸術体験として、子どもがまず感性で触れていくようなやりかたで行われる。

芸術体験や芸術教育などと聞くと、絵を描かせたり、音楽を聴かせたり楽器を演奏させたりすることを考えがちだが、それだけではなく、例えば家を作る授業や、農作物を作る授業があり、その中で子どもたちは、五感を使って世界の美しさに触れていく。数学や歴史、国語の授業でも絵を描いたり図を描いたり、物語を聴いたりしながら、やはり五感を働かせてその世界を美的に感じ取りながら自ら考え学んでいく。各教科が独立した別々のものではなくて、それらすべてが関連して美的な世界を形作っており、美を基本として、世界を1つの統合された全体として感じ取られるように計画されている。そこでは記憶力や論理思考力などをそれのみで独立して発達させることを諫め、この時期にいわゆる狭い意味での「勉強」が飛び抜けてできる子どもは、一種の偏りであり、問題児とされるのである。

芸術を人間の営みの中心におくという思想で思い出されるのは、ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻という概念だ。ボイスの言う「すべての人はアーティストである」という言葉の意味は、今まで理解しているつもりでいたが、シュタイナー教育の思想を知ってより深く理解できた。それは、来るべき新しい「芸術」の概念ではなく、すべての人が世界を美的に捉え、それぞれの立場でアーティスト(この言葉が誤解を生むことを承知で言えば)として生活していくという意味だ。今までの「芸術」という概念の枠外にある思想であり、絵や彫刻など既存の芸術はもう古いという意味では決してない。
# by katayama_t | 2014-09-16 15:45 | Art


記録すること。すべて過ぎ去ってしまう前に。
by katayama_t
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