人の話を聞き続けるのはとても体力のいること。
自分をからっぽにして相手の話を聞く。すると相手の感情や情念のようなものが自分の中に流れ込んできて溜まっていく。終わった後これを何らかの方法で吐き出していくのだが、吐き出した後の虚しさといったらない。吐き出した後には何も無い虚空があり、とても心細い気持ちになる。
昨日は、首都高を流しながら自分の中に溜まっていたものを吐き出していた。
たぶんもっと良い方法があるはず、自分の中に溜め込まず、川の流れのように瞬時に自分の中身を更新していくような方法が。
人の言葉や言葉にならない「感じ」を自分の中に取り込むのはとてもストレスが溜まるが、今日草刈りをしながら考えていたら、作品作りで素材と対峙している時にも同じことを感じていたことに気がついた。素材の場合は動かないので、人間を相手にする場合ほどストレスフルではなく打ちひしがれることも無いが、自分を空っぽにしていくという点ではとても似ている。作品を作っている時には自分がとても弱く感じる。
人の話を聞く場合、こちらからの誘導が無ければ、誰もありのままの自分など出してくれない。素材を相手にする場合もこちらからアプローチして始めて素材はその特性を明かしてくれる。
人の話を、あるいは素材の声を聞くために働きかける。
そして、相手のことが分かってくるとある程度自分の意のままに操ることができる。
そのときにはどこか悪魔的な快感がある。
そして、最近よく思うのは、自分を変化させるためには自分を空しくしておかなければいけないということ。自分の中をからっぽにしておき、ひたすら受容することでしか自分を変えることはできない。自分を敏感に変化させるためには、経験や信念や知識など、溜め込んできたものを一度捨てなければならない。
ものをつくるというのは、小さく何も持ってないただの弱い人間にその都度立ち返っていく作業なのかもしれない。そしてもしかしたらそれが自由と呼ばれる状態なのかもしれないと思う。