Katayama Takatoshi Weblog
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芸術とは?
私は芸術を信じている。誤解を恐れずに言えば人間は芸術を行うために生きているのだとさえ思う。

では芸術とは何だろうか?
パブリックアート研究所の杉村氏は「人の感情や思いを伝える技術」という言い方をしている。確かにそうであることは間違いがないだろうが、それを芸術の定義とするには、もの足りなさを感じる。自分が芸術に対して感じている思いは「技術」というコトバでは十全に表現されていないのだ。

私は、杉村氏に芸術とは何だと思いますか?と聞かれたとき、「芸術とは祈りである」と答えた。一言で表現するとすれば「祈り」というコトバが自分にとって一番しっくりくる。

1998年10月に今は無きモリスギャラリーで展覧会をしていたある時、小学生の子どもと母親らしき親子連れがガラス越しに作品を観ていた。このギャラリーは通りに面したビルの1階にあり、部屋の2面が総ガラス張りで道行く人からも中の作品がよく見えたのだ。近所の薬局に勤める方が昼休みに連れ立って見に来たり、偶然通りがかった人が興味を持って入ってきたりと、なかなか面白い空間だった。ただ、観ていく人たちは圧倒的に女性が多く、スーツを着込んだビジネスマンは見向きもしないか、ちらっと見ても「こんな空きスペースはテナント(貸店舗)にして活性化を図ればいいんだよ…」なんてことを連れだって話しながら足早に通り過ぎていく。男はバカだ。

その親子連れは中の作品をガラス越しにしばらくじっと見ていたが、やがて、母親が子どもに「○○ちゃん、これは何だと思う?」と話しかけた。
そして子どもは作品から目を離さずにこう言った。

「これはね、魔法…」

すごい答えだ。感動した。その言葉を聞いて私は、「そうか、芸術というのは魔法で、芸術家は魔法使いなのだ」と思った。
それまで、彫刻や絵画を見て、ただの金属や、絵の具の配置を通してどうしてこんなにも感動したり涙したりすることが起きるのか?これらはいったい何なんだ?と思っていたが、それは魔法だと言えばなるほどと思える。
冷静に考えれば「魔法」という非現実を使って答えを棚上げしたようにも思うが、そういうコトバを使わないと自分が感じている「芸術」というものの正体を表現することができないというのもまた事実だ。
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芸術作品を作るには技術と魔術の両方が必要だ。技術は鍛錬によって得られるが、魔術を得るためのマニュアルは無い。そして、芸術の本質は技術ではなく、魔術のほうにある。
by katayama_t | 2007-08-29 23:40 | Art | Trackback | Comments(0)
富山2日目
2日目の今日は午前中に井波周辺のパブリックアートを見て回ってから、いなみ国際彫刻キャンプ、木彫刻サミットの会場になっている瑞泉寺、綿貫国民新党主が社主・神主の井波八幡宮・招魂社、木彫工通りを探訪して午後は「パブリックアートフォーラム IN いなみ」に参加。夜は合掌造りの集落の中にある民宿に宿泊した。

行程を振り返るとすべて見て回ったのが信じられないくらい盛りだくさんだ。暑い中よく歩いた。一日がとても長い。

井波は木彫刻の町というだけあって町中に木彫刻があふれている。また、立派な寺がそこかしこにある。昨日見た瑞龍寺も立派だったが、瑞泉寺はさらにすごい。寺の建築の大きさや形もさることながら、あちこちに彫られた彫刻の見事さには圧倒される。こういうものをみると昔から経済的にも豊かな地域だったのだということがひしひしと伝わってくる。
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午後に参加したパブリックアートフォーラムでは、主に木彫刻を屋外に設置する場合のありかたやパブリックアートの考え方について話し合われた。

木は外に置いておけばどうしたって腐る。それはしかたのないことだ。ネイティブアメリカンはトーテムポールをやがて朽ち果てるという前提で作った。朽ち果てたらまた作ればよいだけのことで、それは自然なことだ。だが、現代の芸術作品となるとそうはいかない。そこに匿名性はなく、あるのは作家性だ。そこではどこの誰がどういう意図で作った作品か、ということが強調されて、どこまでいっても作家個人の意図を反映させたプライベートアートだ。

では、いったいパブリックアートとは何だろう?
町の中に置かれるということは人の生活と関わるということだ。それはある意味個人の作品ではなくなるということだろう。人々の生活にとけ込んでこそパブリックアートとして完成する、別の言い方をするとパブリックアートというのは匿名性(無名性)を獲得してこそ良い作品である、とは言えないだろうか?
道ばたに置いてあるお地蔵様のように、作品が作家名を超えて独り立ちしてこそ良い作品だとは言えないだろうか?
ストーンヘンジのように、ナスカの地上絵のように。あるいは奈良の石舞台のように。

一日中彫刻を見て、フォーラムに参加して宿に向かおうとしたところで、再び瑞泉寺で風の盆に出会った。しばらく集団で踊った後、舞台中央で女一人と男二人による見事な踊りが延々と続き強烈な印象を残したが、あまりにすばらしくてシャッターを押すのを忘れた。

その後、世界遺産にもなっている相倉集落の民宿「勇助」へ。こういう集落があるということは知っていたが、まさか自分がそこに泊まることになろうとは思わなかった。夕飯は山菜や岩魚など、おなかいっぱい土地の料理をいただいた。こういうものはたくさん食べてもまったく胃にもたれない。
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明日はこのあたりの集落を見て回ってから富山駅で解散だ。今回の旅行はとても密度の濃い貴重な体験だった。
by katayama_t | 2007-08-26 23:40 | Art | Trackback | Comments(0)
富山にて
「富山美産研究・探訪会」という催しに参加して、今、富山県高岡市に来ている。「いなみ国際彫刻キャンプ2007」開催に合わせて関連イベントの見学と、高岡市および南砺市井波(なんとしいなみ)と菅沼地区のパブリックアートと地域の歴史美産(美的歴史遺産)を探訪する、という趣旨。昨日は高岡駅から出発して市内に設置されたパブリックアートを見て回り、国宝瑞龍寺や地場産業センターなどを見学した後、荘川温泉「三楽園」に宿泊。そして夕食後、八尾「風の盆」のリハーサルを見に行った。

高岡市というところには初めて来たが、市内のいたる所にブロンズ彫刻が置かれていてまさに彫刻の町という趣だ。聞くところによると小学校から高校まで、美術の時間と総合学習の時間を利用して、地域の産業である漆工芸や木彫刻の製法を学びつつ各自作品を制作するというカリキュラムが積極的に組まれていて美術教育に力を入れているようだ。日展の木彫で入選している作品の80%以上は井波出身の彫刻家だというからすごい。木彫刻では日本一だろう。日本一ということは世界一といっても差し支えなかろう。瑞龍寺の欄間彫刻を見てもなかなかすごいものがあった。

市内に設置されているパブリックアートで印象に残ったのはまず、高岡駅南口に設置されているエンリック・ミラーレスの彫刻。
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取り壊す予定だというので、もしかして壊している途中なのか?、と思ったのだが、これで完成形だという。出来た当初から市民の評判は悪く、今回再開発にともない取り壊すに当たっても市民からの反対の声は皆無のようだ。そして作者は、というとすでに亡くなっていて親族などにも連絡がとれない、とのこと。
作るときにはそれなりに大きなお金(税金)を払ったのだろうが、評判が悪く、壊すときは誰も惜しむものがないというのは、不幸なパブリックアートの典型といえるだろう。こういうのは作る前のプランニングの段階でもっと時間をかけて市民と対話していくべきだし、また、彫刻家との契約の段階で設置期間などの取り決めをしておくことも大事だ。

バブル期に日本中の町中にパブリックアートと称してブロンズ像があふれたが、ああいうのはこれからどういう運命をたどるのだろう?
誰にも大事にされていなければ多くは撤去することになるのだろうが、作家との契約では撤去することに触れていないだろうし、美術作品の扱いに疎い自治体はメンテナンス費用も計上していないだろう。これから大変な問題になっていくことが予想される。

もう一つ高岡市内に設置されたパブリックアートの中でおもしろい現象が起きていたものがあった。銀行の前に設置されていた人物の群像に浴衣が着せてあったのだ。d0094333_1675687.jpg銀行の女子職員たちが始めたそうで、季節ごとに衣替えする。道行く人たちもそれを楽しみにしていて、なかなか評判がいいらしい。自分が作者だったらとてもうれしい現象だ。
ところが、これに噛みついたのが日展の作家連盟。この辺は日展の力が絶大だ。彼らは芸術を冒涜するものだといって猛烈に怒っているそうだ(笑)。芸術ねえ…ハハハ。いろんな考え方があるものだ。こういうことがパブリックとは何か?、アートとは何か?ということを皆で考えるきっかけになればいいが、日展が考えを曲げるとは考えにくいな。なにしろ、彫刻を置く台座の高さを1m以下にするのでも大変なのだそうだ。市内には朝倉響子さんの彫刻もあり、とても評判がいいそうだが、これはほとんど地面と同じレベルで置かれている。これを置くのも大変だったようで、作者が「これでいい」といっているのにも関わらず作家連盟はなかなか了承しなかったそうだ。

一通り市内を見て回ってから瑞龍寺や地場産業センターにいって夕方宿へ。
温泉につかってから夕食を食べ、その後「風の盆」のリハーサルを観に行った。NHKテレビで紹介されたようで、リハーサルといえどもすごい人出。本番では観に行っても踊りが観られないほどの人が集まるようだ。

d0094333_1683692.jpg風の盆というのを私は初めて知ったが、胡弓の音に合わせて傘を深くかぶった男女が静かに踊り歩くもので、なんとも風情がある。聞くところによると踊りに参加できるのは女性は24歳までの未婚女性で、男性も30歳くらいまでという年齢制限があり、本番では朝まで踊り明かすそうで、深夜になって見物人がいなくなった頃が見頃だという。
いくつか踊りの型があるが、特にステージ上で踊られる振りは男女のせつなさが表現されているようで観ていて胸に迫るものがある。傘を深くかぶって顔が見えないところがよけいに想像力をかきたてるのかもしれない。
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by katayama_t | 2007-08-25 23:05 | Art | Trackback | Comments(0)
山口小夜子さんを悼む
山口小夜子さんが亡くなった。

新しく入れ直したOSに最新のソフトをインストールして作業しているが、バグが多くて作業がはかどらない。アドビInDesignCS3のアップデートはまだなのか?などと思いながら、どうにもならず再起動している間に手元にあった2000年9月29日号のアサヒフラフ「山口小夜子特集」を読んでいると、彼女は本当に希有なアーティストだったとつくづく思う。

70年代初頭にパリコレクションでデビューした山口小夜子はパリのデザイナーたちにとってまさに「衝撃」だった。そのころの日本人モデルというのは髪を金色に染めてパーマをかけて洋風にするのが当たり前で、日本人だけではなく、アジア人は西洋人に比べてスタイルも悪いし劣っているのではないかという発想がアジア人の中にはあった。そんな時代に山口小夜子は漆黒の髪をおかっぱにして登場したのだ。
山口小夜子の登場は世界に「東洋の美」というものを知らしめた。

ファッションデザイナーの高田賢三氏は次のように言う。
「小夜子さんが一人で舞台に出ると、その洋服が、別の物になってしまうんですよ。モデルの中でも、小夜子さんは飛び抜けています。彼女の魅力は特別ですよ。単に東洋的とか日本的とかいうだけじゃない。モデルとかそういうのじゃなくて、すごいアーティストですよ。」

77年には「ニューズウィーク誌」の世界の6人のトップモデルに選ばれたが、80年代に入るとモデルとしての仕事を減らして今度はダンス・パフォーマンスや舞台衣装、俳優、朗読など多彩な活動を始める。

d0094333_16594826.jpg私が初めて山口小夜子のダンスを観たのは勅使川原三郎の舞台「夜の思想」だ。88年にNHKの芸術劇場で観たその映像で山口小夜子は優雅に、そして人形のような不思議さで舞っていた。その後93年に同じく勅使川原三郎の最高傑作NOIJECT(改訂版)で観た時には、その身体のしなやかな狂気のような動きが作品の強烈なインパクトとあいまって、奇跡としか言いようのない空間がそこに現れていた。その舞台は鋭くてスキが無く、しかも混沌としていて狂おしく、涙が出そうだった。

いつかあの舞台の再演が実現しないかと淡い期待を抱いていたのだが、これで実現しないことがはっきりした。あとは記憶を反芻するのみだ。
残念でならない。
by katayama_t | 2007-08-22 17:50 | Art | Trackback | Comments(2)
データ消失…
やってしまった…。
パソコンの中身をすべて失った。韓国で得た貴重な資料も、手間暇かけて作った授業関連の資料もすべて失ってしまった。

韓国に行くときにMacOSだけでは不安なのでWindowsXPも入れていったのだが、最近はほとんど使うこともなくハードディスクを圧迫してきているので、この際ややこしいことはせずにMacOSだけにして、Winを動かしたいときにはもう1台Winのパソコンを用意するのが良いと思って、昨日HDのバックアップをとり、今日HDの中身を削除、OSを最初から入れ直したのだ。

で、バックアップデータを復元しようとしたところ、データが復元できなかった…。

バックアップには.Macに付属する「Backup」というソフトを使っている。これは最初の1回のみフルバックアップをとってあとは設定すれば1日1回自動的に増分のバックアップをとるようにできているので非常にお手軽で動作も早い。それで昨日の分のバックアップをとろうとしたら外付けのHDが満杯で入らず、しかたがないので今までのバックアップデータを削除し、新たにフルバックアップをとった。…つもりだった。

ところが、とったバックアップはフルではなく増分だった…、ということに復元する段になって気がついたのだ。昨日バックアップをとったのが夕方で、おなかもすいたし早く帰りたいとついつい確認がおろそかになってしまったのが敗因だ。うかつだった。

以前はたびたび手作業でバックアップをとっていたのだが、「Backup」を使い出してから安心しきっていてほとんど2重にはとっていない。
無事に残っているデータはあまりに重くてその都度別のHDに入れていたムービーや写真関連、それから普段からWebメールで使っている.MacやGmailのメールに添付したデータのみだ。この添付データはアメリカにあるMacとGoogleのサーバーに残っているので無事。あとはHPのデータやこのBlogも外部サーバーに蓄積しているので全く問題ない。最近Blogのバックアップもとらないと不安だなあ、と思っていたのだが、外部サーバーのほうが自分で管理しているデータよりもはるかに安全かもしれない。
by katayama_t | 2007-08-18 20:40 | Life | Trackback | Comments(0)
型外し
型から外した。
パーティングライン(型の合わせ目のライン)はかっこ良ければそのまま残しても良いが、この場合は修正した方がよいだろう。もっとかっこいいラインの入れ方を研究しようと思う。
後は乾燥を待って素焼きするだけ。
また、作りたいが問題はモデルがいないことだ。
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by katayama_t | 2007-08-17 22:32 | Art | Trackback | Comments(0)
記録的猛暑
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暑くて暑くて何も出来ないが、梅干しを干すのには良い天気だ。今年は大中小と3種類の梅の木から実を採って梅干しを作った。赤シソは畑にたくさんあるが、入れる暇が無くて赤みが薄い。
by katayama_t | 2007-08-15 22:18 | Life | Trackback | Comments(0)
左右反転眼鏡
「川辺さん」というちょっと変わった友人がいる。
4月に左右反転眼鏡を作りたいから相談に乗ってほしいという奇妙な相談をもちかけられて、いったい何を作ろうとしているのか皆目分からないまま、私にできることなら何でもしましょうと言って引き受けた。何をしようとしているのかは分からないが、何かに情熱を燃やしているのだということはすぐに見てとれたのだ。

でも彼女自身が持ってきた図面を見ても、それが何なのかがさっぱりわからない。そこに描かれている物体の形状や構造が何を意味しているのかが分からず、いろいろ聞いて半分くらい理解したところによると、どうやらこういうことらしい。

人の視覚構造を解明するための実験用に上下や左右を反転させる眼鏡というものがあるが、その改良版を作りたいということのようだ、売られている眼鏡は高価な上にあまり出来が良くなくて、何日も掛け続けるにはそうとう負担が大きいので、もっと軽く、もっと顔にフィットするようなものが作りたいとのこと。

制作条件は以下の通り
1. 軽くて丈夫なこと
2. 顔にフィットすること
3. 光を屈折させるためのプリズムが取り外せること
4. 眼鏡をつけたままでも装着できるものと2種類を作ること
5. そして「かっこいい」こと

とりあえず、素材と構造と制作方法について話をし、顔の3Dデータをとって、現在プラスティックで制作するための3D図面を作っているところだが、忙しくてしばらく中断しているうちに途中まで出来た図面を元に彼女自身がバルサ材を用いて自作し、眼鏡をつけはじめてしまった。
そして、現在「ほぼ日刊イトイ新聞」で15日間、左右反転生活というコーナーに日記をアップしている。8月8日から始めて今日でちょうど一週間。左右反転した世界で人の知覚はどうなっていくのか?という人体実験だ。→ここから

以下「ほぼ日刊イトイ新聞」から引用----------------
「ほぼ日刊イトイ新聞」には、日々、さまざまな企画の持ち込みがあるのですが、この企画には乗組員一同が強い興味を抱きました。
届いたメールには、こう書いてあったのです。
「左右が反転して見えるメガネをかけて8月8日から15日間、生活してみようと思います」
左右反転? 世界の右と左が逆?
そんな特殊なメガネをかけて、15日間も?
企画を持ち込んでくださったのは川辺さんという女性。じつは、以前にも「上下反転生活」をしたことがあるとか。
「なぜ、そんなことを?」と訊くと川辺さんは言いました。
「みんなが納得するので『研究です』と言ってますが、本当は、自分の体に対する好奇心です。遊びです」
その遊び、ぜひ「ほぼ日」にも協力させてください。
さあ、15日間の「左右反転生活」がはじまります。
----------------引用ここまで

本人は「遊び」というが、本来こういうのを研究というのではないのかな? というより、「研究」というのは知的好奇心を満たすための「遊び」であって、研究者本人が楽しんでいるから、門外漢の者にもその面白さが伝わるのだろう。

川辺さん、これからも面白い研究を期待してます。d0094333_17152587.jpg
ちなみに川辺さんが学生時代に「逆さめがね(上下反転めがね)」をかけて生活した記録はここからリンクしてます。
by katayama_t | 2007-08-14 17:16 | Art | Trackback | Comments(0)
長距離ドライブ
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レンタカーで6時間半走り妻の両親のもと、伊豆大川へ。途中パラグライダーが見えたので思わず停車してシャッターを押した。
「ああ、空を飛びたい…。」と思ってしばらく眺めているとなんとなく飛んだような気分になった。
お昼においしいカレーをご馳走になって一休みしてから、今度は沼津へ。やはり渋滞の中2時間半かかって到着。一日9時間も車を運転しているとさすがに疲れる。

刺身三昧の夕食をご馳走になってから流れ星を見るために海岸へ行ったが、漁り火が明るすぎてしばらく待っても1つしか見えず、すごすごと引き上げた。
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翌日海水浴をしてから昼過ぎに千葉へ向かって出発した。また渋滞で6時間近くかかってようやく到着。へとへとだ。
車の運転は苦にならないし、仕事が無かったら運転手もいいかな、となんとなく思ったこともあったが、無理だ。乗る車にもよるのだろうが、ハイクラスの乗用車は乗っていて身体は楽かもしれないが精神的にすごく疲れる。路面の状態が伝わってこない気持ち悪さや、エンジンの細かな振動も、車内の匂いも、妙に静かな音もオートマチック車特有のレスポンスの悪さも、すべてがイライラをつのらせる。妻もジムニーならOKだが、普通乗用車に乗ると必ず車酔いするらしい。

アクセルを踏めばエンジンの吹き上げる音とともにガン!と走って、路面のでこぼこが突き上げてくるような車じゃないと車の運転は苦痛でしかない。レンタカーでもそろそろ普通に外車が借りられるようにならないものだろうか。ポルシェやアルファロメオやプジョーならきっと長距離乗っても運転が楽しいだろう。
by katayama_t | 2007-08-14 13:35 | Life | Trackback | Comments(0)
LIFE
今日は強烈に暑かった。いつも家にいないからこれが普通なのかどうか分からないが、何もできないくらいとにかく暑い。

d0094333_22455754.jpg洗濯や布団干しなど一通りのことをやってから畑に行くと、またもやおばけキュウリが出来ていた。トマトやキュウリを採って、カボチャをなでて、スイカをなでて、ニガウリぼうやに挨拶をし、ピーマンに付いていたカメムシをハサミでチョッキンしているうちに、暑さを忘れて清々しい幸せな気分になってきた。

そういえば妻が「畑をやっていてほんとうに良かった、畑に行くと頭の中がすっきりしてくる」といつも言っていたが、その気持ちがすこし分かった。

畑仕事は楽しい。

でもこれが「仕事」になって機械化して収穫高を上げなければとなっていくと、野菜を「物」として扱うようになって徐々に退屈な仕事になっていくのかもしれない。

お昼はパンとサラダ。取れたての野菜が温かい。最近は家にいつもパンがある。発芽玄米と梅の酵母が元気でパンがよく発酵するのだ。梅の酵母なんて6月初旬に採った梅がまだ元気に発酵している。
ビールを飲んだら眠くなって3時過ぎまで寝た。千葉でレンタカーを予約していたのを思い出し、あわてて千葉までいって、車を借りてきた。3ナンバーの高級車だが、車内のデザインの悪さに閉口した。これをデザインしたデザイナーは形のセンスも色のセンスも無い。「高級」ではなく「高級感」を出そうとしているいやらしさが鼻につく。バカにするなという感じだが、こういう車を喜んで買う人もいるからしかたがない。こういうデザイナーはろくな生活をしていないに違いないなどと考えながらも走行性能はなかなかすごいものがあるなと感心する。パンダと比べるとジャンボ旅客機とセスナ機ほどの違いがある。

帰ってきてから、トマトとキュウリとピーマンとスモークチキンを炒めて、カレー風味に味付けしてビールと一緒に美味しくいただいた。自分で収穫した野菜はそれぞれ名前をつけたいくらいにかわいいので野菜のことをよく見ながら感謝していただいた。

ガイアシンフォニー第2番に佐藤初女さんという女性が出てくる。青森県弘前市に「森のイスキア」という悩みや苦しみを持つ人たちを受け入れるための場を作りそこを主宰している方だが、この方は「食」を通じて人を癒していく。その地で採れた食材を丁寧に調理して、訪れた人に食べさせるということだけで、人を癒していく。

初女さんの調理のしかたを見ていると、とにかく丁寧だ。ふきのとうを採るのにもスコップなどは使わず、小枝で雪を掘り、最後に根元をスッと刃物で切る。じゃがいもの皮をむくにも包丁で丁寧に薄くむいていく。いきものを扱っているという意識が自然とそうさせるのだろう。
私は、あの映画をみてからピーラー(皮むき器)などという暴力的な道具は使わなくなった。それにコストや効率性などという社会的な価値観を食に持ち込むことをしなくなった。それまでも安いという理由で食べ物を選ぶことはしなかったが、初女さんを知って食は大事だということをはっきり自覚した。いうまでもなく「食」というのは生きる上でとても大事だ。食を大事にしないというのは生きることを大事にしないのに等しい。

今夜はめずらしくカブトムシが2匹も飛んできた。どういうわけか夜明かりに誘われて飛んでくるカブトムシはメスばかりだ。子どもの頃から今まで一度もオスが飛んできたことがない。
明日は早朝から伊豆へ向かう。妻と子ども達が一足先に向かっている妻の両親の家に行き、あさって帰ってくる予定。
by katayama_t | 2007-08-11 22:46 | Life | Trackback | Comments(0)


記録すること。すべて過ぎ去ってしまう前に。
by katayama_t
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